相模川紀行 2014/9〜12

山に登るのがしんどくなり、代わりに河川というイージーな選択をしました。
ところがこれが結構面白い。いろいろな発見があります。
まず最初は、相模太郎といわれる相模川を河口から源流まで辿りました。相模川の源流は山中湖というのをご存じですか。川沿いのあちこちを拾い歩き、富士山麓までを約3ケ月かけてスケッチしてみました。
                               <相模川河口>      4号
神奈川県民の命を賄う使命を終えて、相模川はここで静かに相模灘に注ぎ込みます。さあ、これから水源といわれる山中湖までどんな様相をみせながら流れているのか、遡ってみることにします。水源は向うに見える丹沢山塊の真後ろ当たる方角です。
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                            <史跡 相模川大橋の橋脚>    2号
河口の東寄り、茅ヶ崎市の小出川に鎌倉時代の橋脚という史跡がある。当時はこちらが本流で、遺構から推定すると幅7mの堂々たる大橋が架かっていたらしい。この橋の竣工式に頼朝公が出席している(吾妻鏡) ところが帰途に突然馬が暴れだして川に落ち、この時の怪我がもとで頼朝公が亡くなったとも言われている。このため相模川の下流部は馬入川といわれ、今でも地名に残っている。
                  <寒川取水口>  2号
寒川神社の西寄りに取水口がある。こんなに河口に近いところで取水出来るのは、相模川がいかに清流であるかを物語っている。流域の住民、企業、自治体の並々ならぬ努力の結果でもある。山梨・神奈川の誇り得る文化資産ともいえる。
           <圏央道中央連絡道工事現場 2015/9>   2号
寒川北と海老名の短い区間がなかなか繋がらない。いつ開通することやら。これが繋がると藤沢から各高速道にノンストップで乗り込める。この効果は大きい。朝暗いうちから家を出る苦労も解消される。長生きしても余りいいことは少ないが、これは稀有な事例に属する。それにしても工事が遅い。何十年たったのか忘れるほど。鎌倉時代でもこれ程かからないと思う。ねえ、頼朝さん。
               < 田名 八景の棚 >    4号
相模川の左岸はこの辺りから河岸段丘をなしている。段丘の高みから丹沢山塊を一望できる。画面左は渡し場のあったところで、江戸期にはここで厚木に渡り、矢倉沢往還と呼ばれた道をたどり、大山詣で賑わったという。また、足柄峠を越えて京に向かう往還道として往古から使われたみちで、旅人はこの辺りで一休みして行き先に思いを馳せたことだろう。
< 当麻山 無量光寺山門 >   2号
当麻には鎌倉期の僧一遍が踊り念仏を行った場所に大寺が建っている。火災で焼失して古い建物はないが、この山門は築400年ほどの古いもので文化財に指定されている。一遍は一所不住を唱え、終生遊行僧として念仏を広めたから大寺は似つかわしくないが、弟子や信者としては立派な伽藍を建てたかったのであろう。どの宗教にもよくある話である。
 < 城山 普門寺 >    2号
城山ダムからは主要道が右岸となる。しかし、昔は左岸がメインだったという。あえてそちらに回り込む。普門寺の裏山に飯綱大権現の小宇があり、そこから左城山ダム、右津久井湖が望める。現在は右岸に家並が広がり旧道沿いは寂れている。道も無いに等しい。地図上に峰の薬師とあったので上ってみたが、SUV車でないと行けない道。ひとつき50円の鐘をついて何やら得した気になる。
< 桂川 上野原近傍 >  2号
相模川が相模湖に流入する場所を見たいとあちこち走り回った。相模湖の上流は、どこもダムの一部のような様相でなかなか場所を特定できない。とうとう上野原まで来てしまった。川は、右手奥の谷合いから流れ出している。ここで新発見。相模川は甲斐の国に入ると桂川と呼び名が変わる。桂川はここから上流は一変して深い渓谷をなしている。
 猿橋 >
猿橋が相模川にかかっていたとは知らなかった。かの広重が描いた場所に降りられると聞き降りてみたが、今は途中までしか行けない。川はこの辺りが一番狭まっているのでここに架橋したらしい。画面左がメインの甲州街道でこの橋を渡って富士吉田方面に通じる分岐点となる。下段の橋は水力発電所への水路橋。こちらも趣のある作りになっている。     
< 桂川 三つ峠駅近傍      4号
猿橋から、富士山が見える場所を探して桂川沿いに走る。ここまでの桂川は渓谷をなしているが、この辺りは治水工事のためか護岸工事されており、公園が作られていた。
この絵だけは、スケッチをもとに版画風を意識して作ってみた。
< 山中湖 桂川の落ち口     2号
ようやく水源にたどり着いた。しかし何とも味気ない。黄色いポンツウはごみ除けネット。白鳥が群れていたのでやや救われる。そこで思いついて、すぐ近くの忍野八海まで歩いてみた。
< 忍野八海 濁池 >     2号
ここは、富士山から数十年かけて湧き出た水が幾つもの池をなしているところ。海の名がついているがせいぜい2・30平米ほどの池塘群で白髪三千丈の類い。しかしまあ沢山の観光客がみな喜んでいたので海でもいいか。この絵を買いたいという若い中国人夫妻には困った。彩色作業の途中なのにである。彼らは大金持ちというから、ふっかける手もあったか。
< 忍野八海 新名庄川 >      2号
このあたり、当然ながらどこにでも富士山が顔を出す。水底には水草が繁茂しゆらりゆらりと戯れており、ハンノキの巨木の間を湧水が流れて行く。その先にも不二の高嶺がありました。
<忍野八海 大橋近傍 >      2号
忍野八海の湧水は、この少し先で桂川と合流する。水量はむしろこちらの方が多いくらい。ということは・・・とここで考える。相模川の水源はここだと見做してもよいのではないか。神奈川県民の飲み水は、忍野八海の湧水と思ったほうが格段に気分がよい。 結論、私的には相模川の水源は忍野八海と認定したい。
国土交通省殿、よろしく!!。
ここからは2015年の描き初めです
< 新春の七里ヶ浜 >       4号
寒かったけれど穏やかな日和でした。いうことなし。
< 新春の稲村ヶ崎 >        2号
伊豆大島もくっきりと浮かんでいた。