境川(片瀬川)紀行 その1(2015/3〜9)

境川を遡ってみます。
今回は畑に通うために何時も通る湘南台辺りまでの風景です。とはいえ、歩いて見て回ると興味深い事蹟にたくさん出合い時間の経つのを忘れます。
境川とは、武蔵の国と相模の国を分ける川という意味だそうです。
                              < 片瀬川河口 弁天橋 >      4号
神奈川の名橋に選ばれている弁天橋の下を流れて、片瀬海岸というか江の島に向かって注ぐ境川は、この辺りでは片瀬川と呼ばれる。両岸にはプレジャーボートが沢山係留されている。以前は不法係留として問題視されたが今は暫定処置として許可されているとか。
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                            < 山本橋より >    2号
教会と道を挟んだ反対側に山本公園があった。由来記によると、片瀬村の豪農山本家が片瀬砂漠と言われていたこの辺一帯を、防砂松などの植林で今のような人の住める場所にしたという。公園も橋も山本家の尽力によるもので大恩人といってよい。
山本橋は、この近くの学校がらみの命名と聞いていたがガセネタであった。
              < 西方公園より鵠沼方面 >  4号
岸の向こうにはコジャレた家が立ち並び、背後には丹沢山塊と富士山まで頭を覗かせていた。
ちょっと心配なのは、この川の暴れ方である。記録によれば大水害が過去何度も起きている。先日の常総市の例もあるので油断は出来まい。
                 < 石上地蔵 >   2号
江ノ電の石上駅の近くに立っている。古くは固瀬川と呼ばれた川は、この辺りまで大きく蛇行していた。
そこに石上の渡しがあって、そこに立っていたという。鎌倉期に鴨長明が実朝に会いに来て、この渡しで歌を詠んでいる。渡し銭をけちったのか、舟には乗らず引き汐までまって徒歩で渡ったとある。因みにここに橋が架かったのは明治6年でやはり山本家が一役かっている。それまで鎌倉に入るのも江ノ島に詣でるのも全て渡船に頼ったというから俄には信じられない。
               < 柏尾川合流部 >    2号
絵の右側から柏尾川が合流する。実はここで少し迷った。柏尾川を遡るかどうかである。しかし、むかし柏尾川を遡ったら、どこかの民家の台所だったという話を思い出して、左手の境川に決めた。しかし、この話はいつかは確かめたい気もする。
< 遊行寺橋 >   2号
この橋も神奈川の名橋の一つ。この辺りは江戸期には、上野、名古屋と並んで三大広小路と言われたと、遊行寺前の説明板にあった。東海道を上り下りする人々、大山詣、江の島参詣などで大勢の旅人がごった返していたに違いない。併掲されている浮世絵でみると橋の向こうには旅人宿が櫛比して袖引く客引きが沢山描かれている。しかし、橋そのもは質素というかお粗末な作りである。幅は6尺にも満たないか。
 < 遊行寺惣門 >    4号
言わずと知れた一遍上人ゆかりの大寺。相模川紀行に描いた無量光寺と本山係争したこともある。
通称黒門と言われているが正式には惣門という。この先にある樹齢数百年の大銀杏も有名。今も踊念仏が行われているようだが、国宝一遍聖絵に描かれているように激しく踊るのだろうか。一度見てみたい。

< 境川遊水地 >   2号
境川は暴れ川なのであちこちに遊水地がある。ここもその一つで今は公園となっている。遠景は湘南台方面。縄文海進期にはこの辺りまで海であった。資料j館には工事のとき剥ぎ取った地層の実物見本がある。数メートルに及ぶもので必見の価値がある。
ここからは番外編
< カトリック山手教会祭壇 >   4号
恒例のお絵かき会が雨となって聖堂で描かせてもらう。
ご像が阿弥陀さまのようになったのは信心不足だと言われてしまう。深く反省します。