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2016年 利根川_2 
今回は、烏川出会いから河口までの長丁場です。
会の川締め切りまでは、2月のスケッチ。それ以降は9月末のものです。

さすが坂東太郎、見どころ一杯の上、流域の大きさに圧倒されます。
利根川を走り回ると、関東平野を巡ることになるので、結構日本も広いなと実感します。

利根川東遷事業には熱が入り過ぎたかもしれません。
 
 < 烏川出会いから赤城山 >    6号
 烏川よりも神流川の方が馴染み深い。国定忠治はこの辺りに出没した。それで赤城山を入れたくなりました。左の白い山は谷川岳方面。
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 < 島村渡船場跡 >    6号
 木崎宿に向かう途中に見つけた遺跡です。パノラマ風景に惹かれて描いてみました。左から妙義山、富士山のような浅間山、榛名山、右端が赤城山です。つまり上毛三山が一望できたわけです。
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 < 木崎宿の色地蔵 >    2号
 木崎宿は、佐藤雅美の八州廻り桑山十兵衛が念頭にあったからです。大勢いた遊女が願掛けに通った場所です。宿から出られない彼女たちは、ここで故郷の家族を思って懸命に祈ったそうです。遊女が沢山くるので色地蔵と言われたらしいですが、内実を知ると哀れに思われます。
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 < 会の川締め切り跡 >    4号
 このシリーズで一番見たかった場所です。江戸初期には利根川は、ほぼ現在の隅田川ルートで江戸に直接流れ込んでいました。そればかりか荒川までも。そのため洪水が頻発し、それを防ぐために大規模な河川改良工事を指示したのが家康です。利根川東遷事業といわれるその事業は、ここ会の川を締め切り、利根川を銚子方面へ流すことから始まりました。
実際は伊奈家が仕切りましたが、数十年にわたる難工事を成し遂げました。そのおかげで水害をなくし、さらには本所、深川の埋め立ても可能となり、大江戸を成立させたわけです。さらに重要なことは利根川の水運が飛躍的に向上し、江戸への物資供給を支えたことです。つまり大江戸はここを基礎としているわけです。家康が東照宮として崇められるのもむべなるかなです。
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                              < 関宿 江戸川分岐点 >    2号
利根川(向う側)を銚子に流し、江戸川(手前側)とつないだ効果は、計り知れない効果をあげました。関宿には立派な資料館があり当時の様子をよく伝えています。しかし、現場は殆ど放任状態です。この場所に入り込むのに苦労しました。道路がないのです。先ごろの大雨の痕跡がいまだに残っています。現場も大事です。
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                            < 野田市を流れる利根川 >    4号
川べりを走っていたら利根川を渡る有料橋(210円)の案内があり、特別なものがあるのかと行ってみました。何もないので橋番に交渉し、帰りはタダにしてもらって河原に降りました。昼弁を食べながら何の変哲もない川の流れを眺めてきました。
              < 利根運河跡 >  4号
利根川と運河の合流点を目指して、道なき道を走り、更にやぶこぎをしてやっと上がった土手からの景色です。この先に鬼怒川の合流点もあるはずですが、すでに森林化していて何も見えません。この運河は莫大な費用を要して明治23年に開通しましたが、僅か20年ほどで衰退します。道路網の整備と鉄道の発達が原因です。しかし、最盛期には日に100隻以上の大型船が通行する盛況ぶりだったそうです。とにかく銚子・東京間が関宿経由で3日から1日に短縮されたのですから当然かもしれません。それにしても人間の考えることの限界をまざまざと示す遺跡ではあります。
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 < 小貝川出会い >  4号
 この地点で密かに期待していたものありました。それは小貝川の上流の先にあるはずの筑波山です。この日は生憎見えませんが、海音寺潮五郎の平将門を描いた小説にしばしば登場します。私の中では小貝川と筑波山とはセットになっています。特に筑波山の歌垣のシーンは強烈な印象があります。古代のおおらかさを象徴する場面に羨望の念を禁じ得ません。
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                 < 香取神宮の杜 >   2号
香取神宮は下総一宮、創建は神武年間という日本有数の古社なので表敬訪問。あまり広いので駐車場に戻り杜を描いて済ませました。時間の節約です。
               < 北浦 白鳥の飛来地 >    2号
宿は霞ヶ浦の隣りにある北浦に取ったので、早朝湖畔を少し走る。白鳥はまだですが、よたよた走っていると岸辺の草むらから沢山シラサギが飛び立ちます。そんなに心配はいらないのに。
< 潮来権現山から北利根川 >   2号
往古はこちらが本流であった。。ところが、江戸中期に大洪水で本流が佐原に移り、一気に寂れ、何とか客足を戻そうと考えたのがアヤメと花嫁舟。昭和31年の潮来花嫁さんの歌が大ヒットし今の盛況ぶりとなったという。数百年の努力の結果です。今の時期は花嫁もアヤメもないので北斎が描いた場所と言われる権現山から北利根川を眺めました。心なしか枝ぶりのよい木もあって昔の賑わいを偲ばせます。
< 利根川河口風景 >   4号
奥利根の大水上山の一滴の水が、延々322km流れて海にでる場所までやってきました。銚子の外れに千人塚という小高い場所があり、ここから河口を眺める。千人塚とは江戸時代に突風で多数の死者が出たことがあり、その供養塔らしい。穏やかに見える海は、日本3大難所といわれていて、犠牲者が絶えなかったようです。昭和になって川と並行して運河(絵の手前部分)が作られ、やっと安心して漁に出られるようになったそうです。利根川を巡る旅で、治水の難しさと大事さを実感できました。